翻訳と価値の関係

このように理由を説明しても、やっぱりネットスラングを多用した部分は読みにくいし、無個性的でもいいから読みやすくしてくれた方がよかった、と思う読者の方もいるかもしれません。そういう感じ方は間違いだ、と言う気はありません。それもありうる感想だと思います。

翻訳という仕事をよくご存じない方の中には、誤解している方もいるかもしれませんが、翻訳は数学の方程式のように、唯一絶対の正解のある仕事ではありませんし、翻訳の質も唯一絶対の基準で評価できるものではありません。言い換えれば、翻訳の評価は完全に価値中立ではなく、価値観に依存する部分が残るのです。

なぜかというと、翻訳には多くの場合、価値基準が複数あるからです。一般に、複数の価値基準を同時に満たすことは、(運がよければできることもありますが)常にできるとは限りません。工学の最適化の分野では、こういうのを「ダブルオプティマム」と呼んだりしますが、「ダブルオプティマム」が原理的に常に可能でないことは、最適化理論の常識です。これが翻訳にも当てはまるのです。

こう言われると、「何言ってるんだ、翻訳の評価基準は、原文に忠実かどうかだけだろ?」と思う方もいるかもしれません。でも実は、「原文に忠実」という最も素朴かつ当たり前のように聞こえる評価ですら、基準は一つではないのです。

「原文に忠実」と言われると、多くの人は、意味と意味が一致していることを想像しますよね。これはもちろん、まったく間違った考えというわけではなく、翻訳は基本的には、意味と意味を対応付ける作業と言ってもよい。でも、翻訳を長年やっていると、この考えでは不十分な例にいくらでも出会います。

たとえば、少し極端な例ですが、柳瀬尚紀さんなんかが好んで取り上げる「自己言及的な文」というものがあります。「この文は9文字です」などがその一例ですが、このような文は、意味と意味を対応付けただけでは翻訳したことになりません。なぜなら、違う言語で表現されたとき、その文はもはや9文字ではなくなっている可能性が大きいからです。つまり、このような自己言及的な文の意味には、表現形式までが含まれているので、このような文を翻訳する際には、意味と意味だけではなく、表現形式と表現形式も対応付ける必要があるわけです。この時点ですでに、評価基準は二つになっています。

そんなのはごく特殊な例だろ? と思う方もいるかもしれませんので、もう少し一般的な例を挙げましょう。文学的な表現として、韻文というものがありますよね。韻文では、文章が持つ音としてのリズムが、意味内容と同等か下手するとそれ以上に重要になります。ですから、韻文を翻訳する際に、意味内容だけをいくら正確に訳しても、原文に忠実とは言えません。原文の持つ音のリズムをも、何らかの形で再現しなくてはならないのです。韻文の翻訳は往々にして難易度の高い作業になりますが、それは評価基準が複数あるからに他なりません。

さらに、本書で問題になっているスラングにより近い例として、方言というもの考えて見ましょう。日本語の方言があるように、英語にもいろんな方言があります。そして文学作品などの中には、意図的に方言で表現されているものも少なくありません。このような文章をどう訳せばよいでしょうか?

方言というのも、基本的に意味内容ではなく表現形式の違いです。意味内容自体は、標準語でも方言でも同じ内容を表現できるわけです。だとすれば、標準語だろうが方言だろうが、同じように訳してよいのでしょうか? そんなことはないですよね。これはもちろん作品によりますが、方言でなくなることにより、価値が失われてしまうような作品も少なくないのです。そのような作品では、方言という形式によって、その社会の文化や制度やその他いろんなものが間接的に表現されているからです。

つまり、素朴な言語観・翻訳観では、言葉の意味内容と表現形式を独立したものと捉え、意味内容が同じまま表現形式だけを変更すれば、翻訳のできあがりと考える。でも、自然言語の多くでは、意味内容と表現形式は複雑に絡み合っていて、そう簡単に切り離して独立に扱えないことが多いのです。これが、翻訳という作業が本質的に「ダブルオプティマム」になってしまう最大の要因であります。

本書のような場合、単純化して「意味内容のわかりやすさ」(A)と「表現形式のリアリティ」(B)の二つの価値基準があるとしましょう。そして、一方の翻訳はA:10点、B:5点、もう一方の翻訳はA:5点、B:10点だったとしましょう。このどちらの翻訳が上かを、一律に絶対的に決めることはできません。

もちろん、翻訳の技術によって、A:10点、B:5点だったものを、A:10点、B:8点ぐらいにすることは、場合によっては可能ですし、翻訳の技術というものはそのために存在します。柳瀬尚紀さんのように、このような技術の開発に命をかけている翻訳者の方もたくさんいて、それはそれで尊敬すべき態度です。

ですが翻訳の場合、どんなに技術を磨いても、常にA:10点、B:10点にできるとは限らないのです。そしてそのような場合に、A:10点、B:8点とA:8点、B:10点のどちらを選ぶかは、技術ではなく価値判断の問題なのです。

もちろん、日本のマーケットでどちらを好む読者が多いか、みたいなメタ基準を持ち込めば無理矢理優劣をつけることはできますが、それも翻訳の絶対的な善し悪しではなく、単に第三の価値基準で判断してるにすぎません。また、特定の読者層にとってどちらがよいか、という基準で判断することもできますが、その結果は明らかにその読者層の価値観などに依存しています。

たとえば、微妙にジャンルは違いますが、外国語の映画を見るときに、字幕がいいか吹き替えがいいか、という議論がありますよね。あれなんかも実は、視聴者の持つ背景知識、特にその外国語の聞き取り能力があるかどうか、に大きく依存しています。聞き取り能力のある人は、原語の会話をある程度聞き取れるので、補助的に字幕を利用することで、最大限に情報を得られる。でも、聞き取り能力のない人にはそんなことは無理なので、最初から字幕より情報量の多い吹き替えの方が最大限に情報を得られるわけです。

それと同じように、本書のネットスラングが読みにくいかどうかも、読者がどの程度ネットスラングに馴染みがあるかどうかで、全然違ってくるしょう。2ちゃんねるなどの会話を読みなれている人にとっては、本書のネットスラングはなんの障害にもならないので、読みにくいとすら感じないでしょう。だから実は、読みやすいかどうかも、読者の背景知識に依存して決まっているのです。

その意味で、ネットスラングに馴染みのない方にとって、本書の訳が若干読みにくいことは事実でしょうし、それは否定しません。そのような方には、残念ながら本書は向いていませんでしたね、と言うしかないのであります。