ネットの未来を考えるヒントが散りばめられている
本書は基本的には、専門家ではなく一般読者向けの本であり、怖いもの見たさの下世話な好奇心だけで読んでも、それなりに楽しめる本です。ですが、より深い背景知識や問題意識を持つ方が読めば、いろんなことを考えるヒントを与えてくれる本でもあります。
たとえば、第2章の「一匹狼」で描かれるような、政治的右傾化あるいは左右両極への分極化の問題は、今や世界中の国が直面している問題でもあります。そのような分極化を、ネットのエコー・チェンバー効果、サイバーバルカン化、サイバーカスケード現象が加速することも、多くの人が危惧しています。そういう問題意識のある方にとって、第2章は少なからぬ示唆を与えてくれるでしょう。
あるいは、第3章の「『ゴールト峡谷』へ」に描かれているサイファーパンク。彼らの思想は過激なようですが、解説の鈴木謙介さんが「カリフォルニアン・イデオロギー」として指摘しているように、初期のインターネット推進者に通底する思想であり、現在の世界のグローバル化をもたらした思想でもあったのです。その思想が、アサンジのウィキリークス事件やスノーデン事件が示すように、再び各国政府との摩擦を生み出しつつあります。世界ははたして、インターネットの初期の理想を守っていけるのか。そういう問題意識のある方にとって、第3章のサイファーパンクたちの闘いは、決して他人事ではないでしょう。
児童ポルノ問題を取り上げた第4章「3クリック」は、日本人にとって特に無視できない章でしょう。日本は(特に出羽の守の方々から)欧米に比べて児童ポルノに甘い甘いと言われ続けて来ました。成人女性よりもティーンに惹かれるロリコンが多いのは、日本人男性の幼児性の表れだ、みたいな言い方をする人も少なくありませんでした。ですが本書を読むと、合法と違法のグレーゾーンにある「ティーン」ポルノの問題は、英米でも決して無視できない問題であり、それにはまる英米人男性も少なくないことがわかります。
いちいち挙げるときりがないのでこのへんにしますが、著者は実は、そのような現代社会にとって重要な問題に通じる題材を注意深く選んでおり、そのことが本書の魅力を高めています。
著者は主観的な意見を垂れ流すことを極力抑制している、と上に書きましたが、その著者の意見が間接的に表れているのが終章の「ゾルタン対ゼルザン」です。この章も、軽く読み流すこともできるように書かれていますが、実はネットにとどまらず現代社会全般に重要な思想的・哲学的問題を鋭く突いています。ですが、予備知識がないとわかりにくいところもあると思うので、おせっかいながら少し解説を加えてみたいと思います。
この章では、ネット是か非か、という問題を、技術楽観論対技術悲観論、というより一般的な問題として描いています。このような対立はプラトンの昔からあったと著者は言い、現代おける技術楽観論者の極を「トランスヒューマニスト」のゾルタン、技術悲観論者の極を「アナルコプリミティビスト」のゼルザンに代表させます。
でもこの両者の対立、一昔前とは微妙に位相が異なってるんですね。昔だったら、技術楽観論を唱えるのは若い「革新派」で、技術悲観論を唱えるのは老いた「保守派」と相場が決まっていた。でも、このアナルコプリミティビストのゼルザンは、そういうかつての保守派とは思想的バックグラウンドがまったく違うんです。
たとえば、ゼルザンはこんなことを言っています。
「19世紀の産業機械化の導入は、単なる経済運動ではなかったんだ。それは『規律訓練』の運動でもあったんだ! それは、資本家が自律的な人々を飼いならす方法だったのだ」
(中略)
「テクノロジーは中立で単なる道具に過ぎない、という考えは単純に間違ってる」とゼルザンは強く主張する。「そんなことはありえない。テクノロジーは、社会の基本的な選択肢や価値観を形作っているのだ」
‐書籍版288ページ
思想好きの人ならお気づきでしょうけど、これはフーコーとかそういうポストモダン的な思想の発想なんですね。ポストモダン思想というのは、その名の通り、モダニズム・近代主義より後から出てきた、より現代的な思想のはずなんですが、なんとテクノロジーを捨てて原始時代に帰れと言っている。なんでそんなことになったのでしょうか。
(以下、そっち方面にあまり詳しくない方のために、この思想的背景を思いっきり図式化してざっくりと説明しますが、星水は思想の専門家ではないので、本当の専門家からは怒られるような説明になってるかもしれません。だから、本格的に興味を持った方は、星水の説明を受け売りしたりせず、本当の専門家の手になる専門書を読んで勉強することをお勧めします。)
そもそも、モダニズム・近代主義というものは、「理性的な主体性のある個人」というものを前提としてきました。王様や貴族でない普通の市民でも、権力から解放されてリベラルな教育を受ければ、主体的に理性的な判断ができる。それが民主主義やリベラリズムや言論の自由その他諸々の近代的制度の前提になってきました。
でも、この前提はあくまで仮定であって、厳密に実証されたわけではないんですね。むしろ、そう仮定しないと近代民主主義が成り立たないから、個人は理性的で主体性がある「はず」ということにして、無理矢理民主主義をやってみた。そしたらそれがある程度うまくいっちゃったんで、経験的にある程度それが正しいということになった、という方が実情に近いでしょう。それも完全にうまくいったわけでもなくて、ファシズムやポピュリズムみたいな失敗もたくさんあった。
そんなこんなで煮詰まってるところに、近代の制度を疑うポストモダンの人たちが出てきて、そもそも、「理性的な主体性のある個人」なんてのがウソなんじゃないの? みたいなこと言い出した。
フーコーさんなんかは、「知が権力」とか言いだした。人間の判断は知に左右される。権力者は知を操作することで、本人は主体的・理性的に判断してるように思わせながら、他人を都合よく操作できる。だから、知こそが権力なんだ。みたいな。それまで多くの人は、権力というと、軍事力とか警察力とか、物理的な力に結びついたものを素朴にイメージしてたから、びっくりしちゃった。
あるいは、社会構築主義と呼ばれるものもそうで、要するに、人間は自分では理性的・主体的に判断してるつもりでも、実際にはその判断は環境とか文化とかメディアとかに左右されていて、全然当てにならない、ということを言い出したわけ。
ポストモダン思想は、そうやって混ぜっ返してなんでもかんでも相対化するだけで、じゃあどうすればいいの? という建設的な主張をほとんど出せなかったので、あまり流行らなくなってしまったんだけど、その考え方の影響自体は、実は今でもいろんなところに残ってます。
ここまで説明すればわかると思いますが、本書で引用されてるゼルザンの思想がまさにそうなんですね。テクノロジーは、人間の理性的・主体的な判断能力そのものを狂わせる。だから、テクノロジーを使うのは個人の自由だとは言えないんだ、という発想。
そういう影響は他にもいろんなところに見られます。たとえば、表現規制の問題。一昔前なら、有害図書とか俗悪メディアとかを批判するのは保守派と決まっていたけど、最近では第三波フェミニスト系の人たちが同じような主張をしだしましたよね。あれは主張自体は同じようだけれども、根拠は全然違っていて、そういう表現が個人の理性的・主体的な判断力を狂わせて、男性という権力者にとって都合のいい社会(家父長制社会)を維持する道具になっているからだめなんだと。つまり、フーコーの発想を受け継いでいるんです。
あるいは、ヘイト・スピーチの問題。ヘイト・スピーチの法的規制を主張する根拠として、ヘイト・スピーチは言論ではなく暴力である、というものがありますね。あれなんかも、知は権力である、というフーコーの発想のバリエーションと見ることもできます。
だから、ポストモダン思想は流行らなくなった、と言いつつ、その影響を受けた近代のリベラリズムや言論の自由に対する異議申し立ては、実は全然なくなっていない。いやむしろ、近年増える一方と言ってもいいかもしれません。
こういう異議申し立てが結構深刻なのは、リベラリズムの大前提となっている「理性的で主体性のある個人」に対する根本的な懐疑が背後にあるからです。だから、もしこれを全面的に認めちゃうと、私たちはリベラリズムや言論の自由を放棄しなきゃならなくなる。でも、私たちはそれに代わる社会制度の有力な代替案を持っていない。だから困っちゃう。このような問題に関する論争が、どれも出口のない不毛な議論を延々と続けてるのはそのせいですよね。
しかも、先ほど書いたように、この「理性的で主体性のある個人」というのは、あくまで作業仮説みたいなものであって、厳密に実証されたわけではありません。ですから、疑おうと思えば結構疑えるんですよね。最近では、行動経済学とか進化心理学とか脳科学とかの発達により、人間の認識能力には生まれつきバイアスがかかっている、ということが「科学的」に証明されちゃったりもしている。だから、そういう主張がますますリアリティを持ってきているところもあるんです。
そういう意味で、現代では、かつての保守対リベラルとは違った形でリベラリズムが危機に瀕しているのですが、これに対処する一種の折衷案として、人間の理性や主体性のうまく働かない領域を限定して、そこだけリベラリズムの例外とする考え方があります。たとえば、麻薬なんかはかなり昔から個人の自由ではなく、ほとんどの社会で法律によって規制されてきました。その根拠は、麻薬は人間の理性的な判断能力そのものを破壊するから、ということでした。
このような考え方をさらに深化させたものとして、セイラーさんとサンスティーンさんが近年主張している「リバタリアン・パターナリズム」というものがあります。これは、先ほど言ったような行動経済学などの研究成果を利用して、人間にとって生まれつきバイアスがかかっていて、理性的な判断をしにくい領域にのみ、権力によりおせっかいを働く(=パターナリズム)ことを認めよう、という考え方です。これは、麻薬だけはリベラリズムの例外とする、というような考え方の現代版と見ることもできるでしょう。
この考え方の逆説的なところは、権力によって個人の理性的・主体的な判断をサポートしてやろう、権力によって理性的で主体的な個人を確立してやろう、というところで、つまり、権力によって自由を支援するという発想なのです。これは、自由と権力を対立するものとみなし、自由であるためには権力はなければないほどいい、みたいな古典的な発想とは、「自由」や「権力」という概念の捉え方自体が違うわけです。
つまり、このような現代リベラリズムが直面している諸問題をつきつめていくと、そもそも自由ってなんなの? という問題、自由という概念自体の見直し・再定義という問題に行き着くのです。テクノロジーは使えば使うほど自由になるのか? 麻薬をやれた方が人間は自由になるのか? ヘイトスピーチを叫ぶ自由は本当に自由なのか?
本書の著者が、終章においてこう喝破しているのは、要するにそういうことを言っているのです。
技術楽観論者と技術悲観論者の間を真に隔てているのは、テクノロジーに対する認識ではなく、人間の自由についての認識なのである。
‐書籍版292ページ
(だいぶ回り道しましたが、ここに着地させたかった!)
ですから、著者はこの問題は、単なるネットやテクノロジー是か非か、という話よりはるかに射程の長い問題として位置づけており、多くの人にとって切実な問題として提起しているのです。